生きているから☆
こんにちは☆れいこ部長!ですっ
まずは・・・、昨年の東日本大震災、ありえない巨大津波、まさかの福島第1原子力発電所のメルトダウンそして、今日迄の放射能被害。
未だ、自宅に戻れず避難生活をを余儀なくされている方々、ここ福島の地で身近に迫る放射能と戦い続けている方々、離れたくないのに家族と故郷と離れなければならない方々、皆さん本当に頑張っていると思います。
本当にいっぱい頑張りました、本当にいっぱい頑張っています、本当に頑張りましたね。
昨夜仙台では、友人も参加している『スコップ団』が、悪天候の中2万発の花火を天国へと届けてくれました。
本当に2万人=2万発という数の大きさ、しみじみと心に響くものがありました。
☆ここから先は私の1年間の思いと反省とこれからを綴るものです。長いですので、興味のない方はスルー願います。☆
まずは・・・、昨年の東日本大震災、ありえない巨大津波、まさかの福島第1原子力発電所のメルトダウンそして、今日迄の放射能被害。
未だ、自宅に戻れず避難生活をを余儀なくされている方々、ここ福島の地で身近に迫る放射能と戦い続けている方々、離れたくないのに家族と故郷と離れなければならない方々、皆さん本当に頑張っていると思います。
本当にいっぱい頑張りました、本当にいっぱい頑張っています、本当に頑張りましたね。
昨夜仙台では、友人も参加している『スコップ団』が、悪天候の中2万発の花火を天国へと届けてくれました。
本当に2万人=2万発という数の大きさ、しみじみと心に響くものがありました。
☆ここから先は私の1年間の思いと反省とこれからを綴るものです。長いですので、興味のない方はスルー願います。☆
ここのところずっと報道されている各地の様子。
福島県の避難区域の町や村は、まさに『なにもない』、『無』に絡めとられた場所へとなっている事に、『人災』のもたらしたものの見返りの大きさをまざまざと見せつけている。
人間がやらかした事に対してのつけを、福島県民だけに課せられる事の不条理さ。
過去の事のように見て見ぬ振りをし、今更ああだった、こうだったと、『仕方がなかった』的に発言する人たち。
自分が我々の立場だったら、果たして同じ事が言えるのだろうか。
それでも私たちは生きている。
津波で命をもってゆかれてしまった約19万人の人たち。
そして、その倍以上の数の家族の方々はみんな生きている。
人の命の尊さを改めて気付かされた昨年のこの時。
家族の側にいなかった自分に嫌気がさした。
皆が無事で本当に良かったと思ったあの時。
心がくだけるかと思った。
『少しだけど・・・』といって、助けてくれた人達。
あの時は本当にありがとうございました。
1年間、振り返ると結局何も出来なかった。
反省すれば本当に情けなくなる事ばかり。
友人の『人助けに理由はいらねえだろ』という言葉にも、何も出来なかった。
19万人という、ものすごい数の命が、ああも簡単にしかも一瞬で無くなった一日。
私がここに生きているのは偶然ではなく、必然なのだろうと思う。
何もかも形あるものが壊れ、崩れ、なくなった中でも仕事をする事が出来た。
それを皆がサポートしてくれた。
心ない言葉と行動に、怒りを覚えた事もあった。
ある時から連絡がとれなくなった人もいる。
信頼が信頼でなくなった1年。
人間不信にもなりかけた事もあった。
それでも、生かされている自分の存在がここにある。
いろんな不安はまだまだあるけれど、生かされたのならばまだまだやる事はあるはず。
ここ福島は郡山は、まだまだこれから。
復旧は半分以上は進んだのだろうが、新しいものは何もまだ始ってはいない。
直して喜んでいてはいけない。
放射能だって、もっともっとちゃんと言わなくてはいけない。
『除染』というけれど、『除染』はとりあえずであって、問題の解決方法ではない。
国にもっともっと、言わなくてはならない。
私たちは、もの作りを営む者。
新しいものをもっともっと造って、たくさんの希望を造って、幸せに生きてゆけるんだという道を造ってゆきたい。
そうなるように頑張りたい。
もうすぐ、あの時間がやってきます。
1年して思う事を綴ってみました。長くてすきません。。。
終った事を振り返るのもどうか?とは思いましたが、自分的にもう一度お礼と、この記憶を残させて頂きたいと思い、写真をいくつか載せさせて頂きます。
久々に行ったビックサイトでの Japan Shop展示会場に着いた途端の出来事でした。
東京で帰宅難民に。結局、有明から谷中までの帰路となりましたが、この時はまだ、知る由もなかった。
まさか、こんな事になるとは思わなかった。帰る手段が見つからないままに。
やっと、帰れるとなって、何かをしなくてはと思っていたとき、
この方々に本当にお世話になりました。
心から『ありがとうございました。』
皆さんの事は一生わすれません。ありがとう!
緊急ヘリ等優先の為、2時間近く待たされて、辛かった。
やっと帰れる、やっと戻れるみんなの元に、と。
郡山駅_0317
桑野_0319
それでも、甥っ子君は元気に遊んでくれました。
割り込む方。こんな時に人の心が見えてしまいます。
4月に入り、自粛していた街灯の電気も点ける事にしました。
新しい希望の為に、皆のサポートを頂いて(感謝!)、現場を動かす事にしました。
少しずつ、少しずついろんなものが返ってきました。
同時に始ったものもありました。
上棟と震災復旧の慰労を兼ねて、『花見の宴』を催しました。
初夏の兆しが見え始め、現場も皆の努力のおかげで進んでゆく事が出来ました。
この地震でたくさんのものが壊れました。
しかし、業者さんが『楽しみだ!』と、言ってくれたのがうれしかった。
やっとの事で、OPENの目処がたち安堵したとき。
こういう場面で消防車を見るのはうれしかった。(いつもは嫌だけど。)
もう少し・・・皆頑張ってくれた。
うれしかった。新しい希望が出来た瞬間だった。
友人が誕生日を祝ってくれた。
『福島が好き』と言ってくれた人々に感謝!
日常が普通に過ぎて、年の瀬が近づいて、
12月に入って、ようやく実家の修理に手を付ける事が出来た。
懐かしいものばかり。
あの時、弟のお嫁さんのお腹の中にいた姪っ子ちゃんもこんなに大きくなった。
もうすぐ1年が過ぎます。
亡くなった方々に追悼の意を。
どうか、安らかに。
そして私たちはこれからも頑張って生きてゆきます。
この教訓を後世に必ず残します。
良い記憶も、悪い記憶もすべて。
皆、ありがとう。
まだまだ〜がんばりまっし!
っぢゃ。
PS.これはあくまでも自分への記録なので、読み付き合わせてしまった方々には、心よりお詫び致します。
福島県の避難区域の町や村は、まさに『なにもない』、『無』に絡めとられた場所へとなっている事に、『人災』のもたらしたものの見返りの大きさをまざまざと見せつけている。
人間がやらかした事に対してのつけを、福島県民だけに課せられる事の不条理さ。
過去の事のように見て見ぬ振りをし、今更ああだった、こうだったと、『仕方がなかった』的に発言する人たち。
自分が我々の立場だったら、果たして同じ事が言えるのだろうか。
それでも私たちは生きている。
津波で命をもってゆかれてしまった約19万人の人たち。
そして、その倍以上の数の家族の方々はみんな生きている。
人の命の尊さを改めて気付かされた昨年のこの時。
家族の側にいなかった自分に嫌気がさした。
皆が無事で本当に良かったと思ったあの時。
心がくだけるかと思った。
『少しだけど・・・』といって、助けてくれた人達。
あの時は本当にありがとうございました。
1年間、振り返ると結局何も出来なかった。
反省すれば本当に情けなくなる事ばかり。
友人の『人助けに理由はいらねえだろ』という言葉にも、何も出来なかった。
19万人という、ものすごい数の命が、ああも簡単にしかも一瞬で無くなった一日。
私がここに生きているのは偶然ではなく、必然なのだろうと思う。
何もかも形あるものが壊れ、崩れ、なくなった中でも仕事をする事が出来た。
それを皆がサポートしてくれた。
心ない言葉と行動に、怒りを覚えた事もあった。
ある時から連絡がとれなくなった人もいる。
信頼が信頼でなくなった1年。
人間不信にもなりかけた事もあった。
それでも、生かされている自分の存在がここにある。
いろんな不安はまだまだあるけれど、生かされたのならばまだまだやる事はあるはず。
ここ福島は郡山は、まだまだこれから。
復旧は半分以上は進んだのだろうが、新しいものは何もまだ始ってはいない。
直して喜んでいてはいけない。
放射能だって、もっともっとちゃんと言わなくてはいけない。
『除染』というけれど、『除染』はとりあえずであって、問題の解決方法ではない。
国にもっともっと、言わなくてはならない。
私たちは、もの作りを営む者。
新しいものをもっともっと造って、たくさんの希望を造って、幸せに生きてゆけるんだという道を造ってゆきたい。
そうなるように頑張りたい。
もうすぐ、あの時間がやってきます。
1年して思う事を綴ってみました。長くてすきません。。。
終った事を振り返るのもどうか?とは思いましたが、自分的にもう一度お礼と、この記憶を残させて頂きたいと思い、写真をいくつか載せさせて頂きます。
久々に行ったビックサイトでの Japan Shop展示会場に着いた途端の出来事でした。
東京で帰宅難民に。結局、有明から谷中までの帰路となりましたが、この時はまだ、知る由もなかった。
まさか、こんな事になるとは思わなかった。帰る手段が見つからないままに。
やっと、帰れるとなって、何かをしなくてはと思っていたとき、
この方々に本当にお世話になりました。
心から『ありがとうございました。』
皆さんの事は一生わすれません。ありがとう!
緊急ヘリ等優先の為、2時間近く待たされて、辛かった。
やっと帰れる、やっと戻れるみんなの元に、と。
郡山駅_0317
桑野_0319
それでも、甥っ子君は元気に遊んでくれました。
割り込む方。こんな時に人の心が見えてしまいます。
4月に入り、自粛していた街灯の電気も点ける事にしました。
新しい希望の為に、皆のサポートを頂いて(感謝!)、現場を動かす事にしました。
少しずつ、少しずついろんなものが返ってきました。
同時に始ったものもありました。
上棟と震災復旧の慰労を兼ねて、『花見の宴』を催しました。
初夏の兆しが見え始め、現場も皆の努力のおかげで進んでゆく事が出来ました。
この地震でたくさんのものが壊れました。
しかし、業者さんが『楽しみだ!』と、言ってくれたのがうれしかった。
やっとの事で、OPENの目処がたち安堵したとき。
こういう場面で消防車を見るのはうれしかった。(いつもは嫌だけど。)
もう少し・・・皆頑張ってくれた。
うれしかった。新しい希望が出来た瞬間だった。
友人が誕生日を祝ってくれた。
『福島が好き』と言ってくれた人々に感謝!
日常が普通に過ぎて、年の瀬が近づいて、
12月に入って、ようやく実家の修理に手を付ける事が出来た。
懐かしいものばかり。
あの時、弟のお嫁さんのお腹の中にいた姪っ子ちゃんもこんなに大きくなった。
もうすぐ1年が過ぎます。
亡くなった方々に追悼の意を。
どうか、安らかに。
そして私たちはこれからも頑張って生きてゆきます。
この教訓を後世に必ず残します。
良い記憶も、悪い記憶もすべて。
皆、ありがとう。
まだまだ〜がんばりまっし!
っぢゃ。
PS.これはあくまでも自分への記録なので、読み付き合わせてしまった方々には、心よりお詫び致します。